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パネライを代表するシリーズでもある「ラジオミール」
本日はその成り立ちと後の発展についてお伝えします。1860年にジョバンニ・パネライ(1825~1897)が時計店として
イタリア・フィレンツェに創業したパネライ社は
順調に経営を続け、ジョバンニ没後の1897年以降は
息子のレオン・フランチェスコ・パネライ(1851~1918)が二代目として跡を継ぎ、
当時24歳だった孫のグイド・パネライ(1873~1934)も経営に加わります。
後に三代目として社を継いだグイドは、恵まれた経営能力を発揮していきました。
当時のイタリアでは画期的だったカタログによるメール・オーダーシステム(通信販売)を確立。
それにより一般顧客の他、イタリア国鉄やイタリア海軍とも納品契約を結び、
これを皮切りにパネライ社とイタリア海軍の関係が築かれていく事となります。グイドは経営の才能だけでなく、パートナーにも恵まれました。
彼の妻であるグリエルミーナ・フラチェイの父は、工作機器に携わる実業家で
精密工具や精密工作機器などを独自に開発するルートを確立する事が出来きました。1910年初頭
第一次世界大戦に向けて時代が大きく傾きかけたころ
グイドはパネライ社とイタリア海軍との密接な関係を決定的なものとした物質を発明します。
硫化亜鉛と臭素ラジウム、メンソトリウムを合成した高い蛍光物質
彼はこれを「Radiomir〈ラジオミール〉」と名付けました。
グイドの親族であったイタリア海軍将校のカルロ・ロンコーニからのアイデアを受け
ラジオミールの粉末を小さなガラスチューブに封入し、完全な暗闇においても武器の使用を可能とする照準器※を開発。イタリア海軍への納入業者として不動の地位を獲得していきます。
※照準器=銃火器などの狙いを定める装置
ラジオミールは1916年に特許を取得。
フランス・イギリス・アメリカでも特許申請がなされ、
パネライ社の名は世界的に知られる様になりました。
1934年グイドの息子ジュゼッペ・パネライ(1903~1972)が4代目として経営を継ぎます。
当時のイタリアはイギリスと緊張状態にあり、
軍事衝突に備えて潜水攻撃部隊の創設が計画されていました。
それに伴いイタリア海軍は潜水夫用のダイバーズウォッチを必要とします。
まず、イタリア海軍は市販の腕時計を使ってテストを行います。
しかし暗闇での蛍光性、潜水時の防水性、何より軍用時計として耐久性の全てにおいて
満足のいく物ではありませんでした。
そこでイタリア海軍が目を向けたのが第一次世界大戦を契機の切っ掛けとしたパネライ社でした。
極秘軍事機密事項のもと、パネライの潜水用腕時計の開発プロジェクトが進んでいきました。
1936年3月にパネライは蛍光物質ラジオミールを文字盤に使用した防水腕時計の試作品を完成させ
イタリア海軍第一潜水部隊司令部に納品します。
さっそくこの時計を海中で昼と夜にテストをしたことろ
あらゆる点で卓越した性能を発揮します。
こうして軍は同タイプの腕時計10個をパネライに発注しました。改良を繰り返したパネライ社の腕時計は1938年にイタリア海軍に納品
その特徴は47㎜の大きなクッションケースにねじ込み式リューズを備え
インデックスにはグイドの発明した蛍光物質ラジオミールを採用した事を示す
「ラジオミール・パネライ」と文字盤に表記されたものでした。
イタリア海軍は第一次大戦以来、潜水攻撃艇の開発に力を注いでおり
低速魚雷=SLC(Siluri a Lenta Corsa)を使用した多くの奇襲作戦を実行したと記されており、
その兵士の腕にはラジオミール・ウォッチが装着されていました。1940年代に入り第二次世界大戦が勃発。その様々な戦局において、
ラジオミール・ウォッチは実際の任務で使用される様になっていきました。prev.2019.02.18
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